13 posts categorized "歴史"

震災22年。

1月17日・火曜日。
子供の用事のため丸亀経由で高松に出勤。
青空の元の丸亀城がきれいでした。

20170117

丸亀に業務のため平日昼間に訪れたときには人も車もさほど多さを実は感じません。
しかし通勤通学の時間帯は、やはり人がいるんだな、と感じてしまいました。
帰宅の時間帯よりも人も車も集中していますからね。

終日、高松で。

夜に観音寺方面での業務がないおかげで高松で夜まで粘れました。

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広島平和祈念式典+リオ2016開会式・ライブ。

8月6日・土曜日。広島原爆の日。

朝食後、ふと時刻を見たら午前8時すぎ。そうだ今日は広島の原爆の日。8時15分の式典が中継されているはず、とテレビをつけました。
今年はアメリカ大統領として初めてオバマ氏が広島を訪問するなど歴史的な年となり、改めて式典で語られる言葉に耳を傾けました。
感銘を受けて中継は終わり。

すると直ちにリオデジャネイロからの中継へ。
あ、そうなんだ、オリンピックの開会式があった。
しかし、こんなにかぶらなくても。確かにオリンピックも平和を求める祭典ではあるのでしょうが、広島の余韻は吹っ飛んでしまいました。世界的にも広島と今年のアメリカ大統領訪問の意義が染み渡る間もなく世界の運動会に耳目が行ってしまったように感じるのは私だけでしょうか?

それはさておいても、ポールが歌ったロンドンの開会式からもう4年になることも驚きです。ついこの間のような気がして。
そして4年後には東京で開催されますから、東京がオリンピックの最近のトレンドをリサーチするのはこのリオの大会になりますね。非常にダイナミックと楽しさを感じさせた開会式でしたし聖火台もユニークで現代から近未来的。東京にはプレッシャーでしょうね、きっと。
音楽面は、リオは鉄板のサンバで決まりでしたけど、さてユニバーサルに通用する日本の舞踊って何だろうとも考えました。沖縄のエイサーか、土佐のよさこいか?この二つで勝負かけてもいいのでは?
などとつまらないことを考えた土曜日の昼前。

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英国、EU離脱・ライブ-LONDON TOWN。

6月24日・金曜日。

戦闘仕事が実はこの日が本番。
強制執行の現場に向かいました。外は雨。
現場に到着すると、執行官は、昨日退去したと連絡がありました、と。
何事も平和解決が一番。しかし長引いたな~。
お客さんには喜んでいただきました。

現場に向かう途中に、この某セコハンショップに目が釘付け。
「こんな所にあったんだ~。」
いや、前にも気づいていながら、心にとどまらなかったのかもしれないです。
しかし、時間がないなあ、寄り道する。。。
と思っていたらお仕事は超・あっさり終了したものですから時間ができてしまいました。

20160624

それでも次のお仕事を考えたら15分までがせいぜいかな。
すべて3ケタ価格でうれしい収穫でした。ディスプレスもしっかりした壁ディスプレイまであって70年代の空気感すら漂います。

オフィスでのお仕事の合間に気になった出来事は、イギリスの国民投票結果。
EU離脱か否か、です。
いきなり離脱優勢で始まり、離脱勝利確定、となるや、日本株は1300円下がるわ、ドル円は一時99円になるわ。
歴史的な、激動の時間を、またテレビで観てしまいました。

たまたま今日の収穫の一枚がこれ。
ロンドン・ブリッジが正面に控えるLONDON TOWN。ただしUS盤。

Londontown1Londontown2Londontown3Londontown4

Londontown5Londontown6

Londontown7

ずいぶんと久しぶりです。
しかも頭から最後まで通して再生。
USらしい低域拡大気味で、しっかりした味の音です。

イギリスとヨーロッパ、どうか平穏なれ、と思いつつ、聴かせていただきました。

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オバマ大統領広島訪問ライブ。

5月27日・金曜日。
アメリカ現職大統領が初めて広島を訪問する歴史的な日。
伊勢志摩サミットでは伊勢神宮が注目されていました。
自分は2月には広島3月には伊勢神宮、にそれぞれ行ったばかりですから、映像の場所の見当がついたり、その場の空気感も残っていますから、どこにも迫真性を感じます。

夏風邪のためぼんやりとテレビを見ていたら、岩国基地をヘリが飛び立つところから、オバマ大統領が広島平和祈念公園に到着して専用車で立ち去るまでの一部始終を、ライブで、観ました。

よくコントロールされた行動、そして発言。
セレモニー臭が十分。

原爆資料館にオバマ大統領が入館し、展示物にさぞ見入っているだろう、などと想像をめぐらせていたのですが、突如、約10分後に退館。出てきました。
極めて強い違和感を持ちました。自分が今春入館した際の画像情報を見ましたら、現在リニューアル作業中のため展示物が半減にもかかわらず優に30分はいました。10分間なんて何を見たの?と思わざるを得ません。芳名帳に記帳しているうちに経過してしまう時間です。
大統領の立場ですから、展示物の詳細はアメリカにいても判る、というのでしょうか?

原爆ドームは対岸の歩道上から「視察」。けどまるで「鑑賞」のよう。
ドームの建物の間近にいかなければわからないこともたくさんあるはずなのに。
せっかくアメリカから広島までいらして(途中、エアフォース・ワンが中部空港から岩国基地まで移動した際には瀬戸内海上空(好天)を通過しており、ひょっとした香川県上空にもいたはず。)、原爆ドームのそばまで行かないなんて。

ただ歴史上初のアメリカ現職大統領の訪問という歴史的意義は決して減殺されることはないと思います。

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広島の原爆。

2月25日・木曜日。
平和記念公園及びその周辺を散策しました。
元安川の東岸の道を南下し、平和大橋を西へ渡ると平和記念資料館の南正面に出ました。

このあたりのなんともいえない押し殺したような空気感は気のせいでしょうか。

資料館に入館しました。入館料50円。
何度見ても涙の出る展示品。
だけど今回は分量が少ないのでは?
と出口に向かったところで訳がわかりました。本館と東館の展示を変更する工事のため、目下東館は閉館状態で、展示品は一時的に半減しているもよう。
ただ告知内容に「グランドオープン」と書いてあるのは違和感が大。

出口下の地面は発掘作業中ですが、井戸の跡など生活の痕跡が生々しく見えました。原爆前の生活状況を示すまさに「現代遺跡」です。

それまで(戦時下といえ)通常の日常生活を送っていた夏のある朝、一瞬にして、家も家族も失い、家庭生活の安らぎも仕事の充実感もそして人生そのものの失った出来事。
一人の人間にとってはなんというはかなさ、無力感、寂寥感、孤独感、それらを感じると、鬱、の気分に陥って抜けられなくなります。

今回は広島の街をある程度実際に歩いてみて、被害の程度と大きさをなんとなく足で感じてしまいましたが、あの原爆は極めて初期のもので、技術が進んだ今との比較では小さいものの、それを人間のいる街で実際に実験したのだ、という感を強くしました。
そう思うとスーツケース原爆によるテロという事態も単なる空想ではなくなりそうです。

帰宅して母親に、
初めて原爆の資料館に行ったのはいつだったかなあ、と問うと、父親が仕事の関係で宇品の港に入港して学校の長期休暇の時期を利用して遊びに行ったときに連れていかれたらしいとわかりました。子供に教育として見せてくれたのでしょう。うっすらとながら、こわいところ、という印象が残っています。
親からしてくれたことを子に返す。それで6年前には我が子たちを連れてきました。
一度きて理解すれば足りるところなのでしょうが、何度も来てしまいました。

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集中学習のまとめ-JFKとパークランド。

ケネディ大統領暗殺にまつわる物語を学習したまとめとして観たのがこの映画。

20151031

JFK
説明不要の一世風靡の名作。1991年作品だったんだ。
狙撃者はバッジマン説ですね。
フラッシュ画面で登場した走る赤いスカートの少女が理解できました。製作当時はすでのその少女のことは知られていたのですね。
昔々のDVDで観たことあるのですけど所在不明のため今回はブルーレイで。

パークランド。
事件周辺といえば申し訳ないけど、事件に翻弄されたり少なからざる影響を人生に受けた人たちの物語。なかなか味わいがあります。
ケネディもオズワルドも同じ病院、ほぼ同じスタッフの処置を受けたのですね。
映画の長さはやや短い?

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ケネディ暗殺集中学習。

ふと、ネットで「君管」のページを開いたところ、表示されていた画像が、黒いオープンカーで男性の頭が倒れ込みピンクの女性が抱えているような図。それを指す表題はPresident Kennedy Assassinationなどという題名。

ケネディ大統領暗殺

これは、60年代を生きた人は誰にでも刻印された文字。

1963年11月22日

私は3歳目前の2歳児のとこのこと。
物心というものがついたころには、
「ケネディ」=「大統領」=「暗殺」
の式が頭脳に刷り込まれていました。
ついでに、ケネディ大統領という人は(具体的にどんな業績を作ったというのでもなく、とにかく)偉大なアメリカ合衆国大統領、でした。
真面目か、パロディか、判然とせずに、ケネディの演説のワードがここかしこで引用されていては、
なんて偉大な大統領を不慮の事件で失ったことか、という空気感、
それは1960年代を通じて流れていたのは確かです。

それで、1963年11月に全米が喪失感に苛まれ、明けて1964年2月に英国四人組に全米が侵略されたのはさておきまして、

今、2015年の「君管」に戻りましたら、まあ、なんて、すごいことでしょう。
知りたいこと、観たいこと、が、CMを省いて、雪崩のように感得できます。
そうしますと、
ザプルーダー・フィルム、はもとより、
ニックス・フィルムも。

そうして、
グラシィ・ノー.ルの丘
に行きつきます。

ブラックドック、やら、
バッジマン、やら。

そのような画像を見続けて得た、私ひとりの回答。
それは、ケネディを殺したのは誰か。
あくまで私の個人的見解では、

LBJ

ということ。
そう考えたら、あまりに、ベタな結論。

まず、なぜそう判断したか、というと、ケネディ暗殺の前の数日間の映像、それはデジタル処理されたかのように鮮明なものでありましたが、見ていましたら、屋外でのケネディの演説の場面。地元の知事なのか市長なのか、ケネディの背後に控えたお歴々は、寒いのか、雨模様なのか、コートを羽織っていましたがみな手を出していたにもかかわらず、LBJひとり、コートのポケットに手を突っ込んだまま。

大統領に対する経緯が、まったく、感じられない。

そう感じたら、私が物心というものがついたころから感じてきたある種の違和感に対する回答が得られたのです。

そうか、LBJは、やはり、ケネディに敬意など抱いていなかった、それどころかその死を一番歓迎し、その死によってもっとも、得、をしたのは他ならLBJだった、と今更ながら気づいたのです。

そう気づくと、暗殺事件は、とんでもない、田舎芝居だと気づいたのです。
舞台はLBJのホームのテキサス。
同氏は地元マフィアとの関係も取りざたされる。
ホームタウンに仇敵を引き入れて、どう調理しようとも自在の地域。
あまりにも見え透いた田舎芝居。

さらにはエアフォースワン内での大統領就任式で、LBJの顧問弁護士であるクラーク氏が、LBJに向かって、ウィンクしている写真を見るにつけ、その後大統領在任中に、顧問弁護士クラーク氏に400万ドルの顧問料を支払ったらしい。しかもそのゲンナマはLBJの懐からでなく、石油会社から支払われたという。

私は、とんでもない史実を突き止めた、と思いました。

が、ところが、
ネット上では、LBJ張本人説は、なかば通説的地位を得ていたもよう。

だって、ケネディ暗殺に関する文書の公開が2039年までとしたのはまさにLBJであるし、ウォーレン委員会を組織したのもLBJだったし。

なんだ。
ネット上では、もう、答えは出ているのか。

じゃあ、殺したのは、オズワルトではないよね。
では、誰?

と探すと、
ジェイムス・E・ファイルズ
と出ました。

この方のインタヴュー画像も追いかけましたら、私は、この人がそうだ、と確信した次第。
なんだ、これも、解、が出ていました。

無性に、ダラス、に行きたくなりました。
できれば、子供たちを連れて。20世紀の最大の謎(とされた)事件の発生現場に。

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阪神・淡路大震災から20年。

2015年(平成27年)1月17日・土曜日。

阪神・淡路大震災が起こった1995年(平成7年)1月17日から20年が経ちました。

20年・・・。

もうそんなになるのですね。ついこの間の出来事のように感じるのに。

あの日の記憶は鮮明で、当時司法修習生1年目の終りころ、弁護修習中でありました私は、実家に住んでいました。早朝、座敷で寝ていたところ、家ごとゆさぶられるような揺れ。木造ですからほうぼうできしみも聴こえます。香川県でこんな大きな揺れは生まれてそれまで経験したことがありませんでした。

同じく飛び起きたであろう両親と、大丈夫か、家の中の物は壊れてないか、大きな揺れだったなあ、と言い合いました。実害は父親がアフリカから買ってきていた現地人の置物が倒れて一部欠けただけ。

テレビをつけると、続々と各地の震度が地図上に表示されますと、自宅のある香川は震度4。自分にはびっくりするような震度でした。へ〜あれが震度4かあ〜。
けど画面の中で震度がなかなか表示されない地域があります。神戸です。
神戸の震度が明らかになるまで時間がかかって、最後に出たのが、
震度7
また驚いたことは言うまでもありません。
情報は、最初は「家屋が倒壊して下敷きになった人がいるもよう」「火災が発生したもよう」などのごくごく断片的なものでした。

出勤準備はしたものの、当時通勤には公共交通機関の利用が義務づけられていましたところ、JR予讃線は運行停止。弁護修習ご担当の弁護士先生に電話をかけました。
「さきほどの地震で予讃線がとまっているようなのですが・・・」
というと、
「それが、どしたんかな?」の一言。
私は、「はい、わかりました。車で行きます。少し遅れます。」と良い親のトヨタ・カリーナ(ダークグレーで高松に向かいました。
どこの道をどう通ったのかはまったく思い出せません。高速を利用して善通寺IC(当時は三豊鳥坂ICはない。)から高松西IC(当時は高速の終点でした。)まで行ったのか、それとも国道11号(当時はすでに旧道・現県道33号ではなく「バイパス」としての現11号と同じだったはず。)をトコトコと走ったものか。
遅刻したものの修習は普通に行われまして、ただ何をしたのか何を起案したのかはさっぱり記憶になし。
ネットなど身近になく、テレビも見るような環境でもなし。

前年(1994年)の11月まで検察修習であったところ、お世話になった佐賀検事のご自宅が神戸と聞いていたので、弁護修習の退勤後、高松地検に寄り道しました。
検事も職員さんもテレビの画面に見入っていられまして、検事のご自宅は無事とのこと。
(当時の高松地検は三井検事初めオモロい人がたくさんいた。)

高速道路やビルが倒れ、大火災が発生し、という未曾有の大災害であることを知ったのは、そのような次第で午後でしたね、多分。
昼食に弁護士の先生の事務所近くにあるうどん屋でも行ったのかなあ?テレビがついていたのかなあ?その記録はないから中継画像の最初の記憶はやはり高松地検の検察官室だったのかも。

いまマスコミの伝えることを見ると、亡くなられた犠牲者の方々の追悼はもちろんのことですが、被災され、家族を亡くされて、その後これまで20年生きてこられた姿は、第三者からのコメントなどできないものです。

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消費税の時代。

今日、2014年(平成26年)3月31日は、消費税5パーセント最後(になるか?)の日です。

思い返せば「消費税」という制度が始まったのは1989年(平成元年)4月1日。
当時、私は鎌倉に住む28歳の司法浪人。
記憶には、鎌倉駅前の東急ストア2階での買い物で違和感を感じたこと、くらいでした。それよりもCDやレコードの物品税(3パーセントより高い数字。)が廃止されたため物品税抜きの本体価格に3パーセントの消費税が乗せられても店頭で支払う額が以前より安くなったことが、ちょっとだけうれしかった記憶が、大、です。赤い帯の付いた東芝EMI
のフルトヴェングラーのCDが一円単位の端数がついて安くなったものでした。

そんな3パーセント時代は8年間で過ぎて、1997年(平成9年)4月1日から消費税は5パーセントに。
当時、私は弁護士2年生になるところ。
消費税アップ前に高松のヤマハで駆け込み購入を、ちょびっと、しましたっけ。
5パーセント、なんてとてつもなく、「高い」印象だけは、していました。

そんな5パーセント時代は、いつの間にか、もう17年間。
仕事上、5パーセントの税額を暗算するのは息をするように自然にできるようになりました。
そんな5パーセントの時代も今日限り。ながいながい「消費税5パーセント年度」もようやく終わりを迎えたというわけです。

帰宅の途中、ガソリンスタンドでせめて満タン給油でも、と思ったら、どのスタンドも長蛇の車列に給油をあきらめました。
スーパーも「ダメ押し買い」とかで駐車場は満杯でした。
大きな節目のまたぎ方はどこまでも「お祭り」のようです。

明日から8パーセントか。。。

いずれにしましても、強制的に徴収した税の効率的な活用、それは、少しでも効率的なレバレッジのかけられた使い方にあるのは当然です。あと、公平感とわかりやすさ。
戦後の日本の税制は、実は、、、という話がいつか必ず出てきそうです。

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広島原爆の日。

平成24年(2012年)8月6日・月曜日。
相変わらず朝から暑い。
長男は登校日、長女は午後から部活動、子どもたちみんなでそろって朝食。
原爆ドーム見に行ったの覚えているか、と聞くとさすがに、覚えている、と答えてくれました。
平成22年(2010年)の春休みのことでした。

原爆が落とされてから何年になる?と子どもたちに尋ねるとみな首をひねる。学校でもあまり教えないのでしょうか?
戦争が終わった年だよ、と言っても、それ何年?とキョトン。
「昭和20年だよ。今から何年前?」と聞いて、さらにわからんらしいです。
「昭和の数字に1925を足せば西暦になるから何年?」と算数を言うと、1945年と答えます。
じゃあ今年は何年?と聞くと2012年、と答えます。
じゃあ2012から1945を引くと?というと小学生の低学年は答えがなかなか出てきません。
55足す12は?と色々ヒントを出して、ようやく67年前の答えに到達しました。

67年前ってお父さんが生まれる前?後?
67年前っておじいちゃんが生まれる前?後?
と聞いておじいちゃんは原爆が落ちたときには何歳だった?と転じ、誕生日が来ていた来ていないと言いつつ満14歳だった、と答えに到達。

そうかあ、あの父が14歳のときかあ、と思うと完全に二世代前の出来事になってしまったのですね。

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